2013年5月27日月曜日

ナンデだろう?

どうしてワタシはそんなに考えてしまうのだろう?どうしてそんなに反応をしてしまうのだろう?嫌なことも楽しいこともチョッと反応し過ぎではないだろうか?いつか周囲のことに全く反応しないで、自分の心の中だけで生きてみようなどと考えることもあるが、すぐにそれが無意味であることに気づく。しかし周りの大抵の人々を見ていると、表向きは無反応を装っていて、ワタシにはそれがとても耐えられない。

だから余計に何かの化学反応の実験をしてみたくなるのだが、それも大抵困った結果となることが多い。困ったと言っても別に困る訳ではないが、何のチカラも経験もないのに何かを見切ろうとするのは、本当に困った奴だと自分で思うのだ。多分恐らくいつもひとりで悪戦苦闘をしてきたから、他の人とは非常に異なる歯車が一杯あるのかも知れないし、思考の切り口やら行動パターンが良い意味でも悪い意味でもシッチャカメッチャカで、闘う方向へ向いてしまうのかも知れない。

何の話をしているのか全く自分でも解らないのだが、多分一番いけないのは自分なんだろうな・・・とこのごろよく思うのだ。一番いけないのは自分の遊びを仕事にしてしまったのが、実は一番いけないことだったのでは・・・と反省はしていないが、残念に思っているようだ。と言うのは見えないモノが見えるようになるのは、普通は良いことのように思われがちだが、実はそうではない。見えないモノは見てはいけないのだ。

見えないから期待値もあがるし興奮もする。見えた瞬間にそんな夢あんな夢は露と消えてしまう。逆に遊びを仕事にできない人々が、ある種の夢を抱いて仕事のような真似事をするのは一向に構わない。ドンドンやれば良い。何故ならそれは決して仕事の真似事ではあっても仕事ではないのだから大いにやれば良いし、それに拠って何かが見えたり見えなかったりはしないだろう。

しかし遊びを完全に仕事にしてしまった人が、つまりプロの遊び人がアマチュアの境界線を越えてしまうことは時計の針を逆回転させてしまうような気がして、時空を炸裂させてしまうことに気がついた。時空を破裂させることはワタシの全く望むところではないが、ワタシの全く預かり知らないところで起こる現象だから、そういうときに気が弱いワタシは動転して一瞬にして新たな苦悩が始まる。

だけどそういった種類の苦悩は、過去を振り返ってみると、ほぼすべてがその苦悩が原点になって新たな悪戦苦闘を始め、それがフェードアウトする頃に新しい行動の座標軸ができていることに気づく。ワタシは自分自身に対していくら何でも時空爆発はまだ早過ぎだよと言いたいのだが、山の中を歩けば歩くほど綺麗な空気と美味しい水のせいで無意識の内にもスイッチが押されそうになる。

楽しかった山の話はまた別のブログで書くとして、今日は意味不明な我が脳みその不活性部分をどのように処理するかで総力を結集して検討した結果が出てしまったと言うか勝手に出てしまったと言うか、今年の後半もまたエネルギーのいる季節になりそう。でもね、これまで見えてから見切ったことは一度もなく、見切ってから見えることの正しさをまたしても証明していかなくてはならないのは、なかなか辛いことである。素晴らしい人々に一杯会えたのにね!