2013年1月7日月曜日

森進一 襟裳岬 について

以下wikipedia からの引用です。
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作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表する黄金コンビによる作品である。厳しい襟裳岬に生きる人々の温もりを歌った曲である。
日本ビクターの創立五十周年、さらに同社音楽部門が分離独立してビクター音楽産業株式会社になった一周年記念として特別企画された内の一曲。同社の看板歌手十人―森進一、フランク永井松尾和子三浦洸一鶴田浩二青江三奈橋幸夫らの新曲シングル盤を1974年1月に一挙発売しようというアイデアであった[1]
これらのレコードに限って担当制はなく、企画を採用された者が制作責任者になるという試みであった。森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時高橋卓士)の案が採用された。高橋が、拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を以前から聞いていて実現に至ったもの。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたが、当初はB面扱いだった。当時の森は、母親の自殺や女性問題から苦境に立たされていたが、当時森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた拓郎からの思いやりと、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り、両A面という扱いに変更して発売した[2][3][4]
演歌の森がフォークを歌うということで注目され、リリースして間もなくオリコンのBEST10に初登場し、6位まで上昇した。累計では約100万枚[5]のレコード売上を記録した。森は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。ライバルの五木ひろしに先を越されていただけに、森の喜びようは尋常ではなかったという[6]。さらに同年の第25回NHK紅白歌合戦においてこの曲で初めての大トリを飾った。奇しくも紅組のトリも島倉千代子の同名異曲の「襟裳岬」(1961年)であった[7]。また、その紅白では、レコ大からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま歌唱した[8]
ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々はサビに登場する「襟裳の春は何もない春です」というフレーズに反感を持つ人も少なくなく、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあったが[9]、やがて襟裳の知名度アップに貢献してそういった感情もなくなり、森はえりも町から感謝状を贈られた[5]1997年にはえりも町にこの歌の歌碑が建設され、その記念に同年の紅白でも歌唱された
フォーク界との融合による本作の成功は、以後の歌謡曲界に大きな影響を及ぼした。本作以降、フォーク系シンガー・ソングライターが歌謡曲・ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった[10][11][12][13][14]
吉田拓郎も、1974年のアルバム今はまだ人生を語らず』でセルフカバーしている。こちらは、森のようなこぶしやしつこさはなく、拓郎の代表曲「旅の宿」のようなテイストのフォーク調の歌い方になっている。
2005年の第56回NHK紅白歌合戦の出場者選考アンケートスキウタ」にも「おふくろさん」と共にランクインした。