2016年1月19日火曜日

言葉の意味をかみ締めて

こんな糞忙しい時に、風邪までひいてダウンしているのに書いておきたいことがあるのです。これは親子だろうと、親戚だろうと、親友だろうと、親しい仲間であろうと書いておかなくてはならないことだからです。何故なら今は江戸時代じゃないんだから、言うべきことは言わなくてはならないし、世間に知ってもらわなければならないことは知ってもらわなくてはならないのです。


昨年は憲法無視の法案が通過してしまいました。多くの人が国会議事堂周辺に駆けつけ反対運動を展開しました。しかし、憲法無視の連中はそ知らぬ顔で、その法案の中身を今か今かと実施に移そうとしています。これはまだまだ反対勢力が、つまり正しいことを主張している人達の声が少ないと踏んでいるからです。もっともっと声を大にして発言していかなくてはなりません。そうでなければ、日本の民主主義はどんどん劣化していく一方です。


民主主義が劣化すると、政治も経済も福祉も教育も劣化してゆくだろうし、先日起きたスキーツアーバス事故なども起きて当然の世の中になってゆくでしょう。そもそもこういう現象は自民党政治の何のフォローも無い規制緩和がもたらしたバス運転手不足が根本の原因になっているのですから。


まぁここでこうした事柄を全て取り上げてゆくほどのエネルギーも時間もありませんので、政治の話はこの辺にしておきましょう。しかし日頃から言葉の意味とか使い方にはもっともっと気を配って生きて行きたいものだとつくづく痛感する京子の心です。


意味も考えずついふっと思いついたことを書いてしまい、自分の発した言葉がその威力を以って相手を攻撃したとしたら、本人にはそのつもりが全く無くても、相手の人の心にはぐさりと攻撃の矢が突き刺さっていることもあるのです。それほど言葉と言うのは恐ろしい力を持っていると思うのですが、問題はそれだけではなく、ひいてはその矢が結局は自分の所に戻って来るということです。


ですから親切と思いやりと上から目線で書いた文章に、本人の気持ちを上手く伝えていない用語や文言があれば、その言葉がブーメランのように戻ってくるはずです。自分が想像もしなかった力やエネルギーになって戻って来たときにどのように対処すれば良いのかは、私にも全く分かりません。それは自分の責任で処理してゆく他はありません。


その時点で、書いた本人の意思とは全く関係なく発した言葉は鏃になって相手の胸に突き刺さっていますので、仏やイエスキリストでもないただの一般人には、相手が善意の当事者であることが充分かっていても、鏃の傷みを我慢することはできないのです。しかしそうすることがお互いにとっても一番良い歩く道を選択することになるのだろうと思うのです。


ところが問題は言葉の使い方の難しさにあります。どんなに考えてもあるひとつの言葉の意味を充分に操る技術は艱難辛苦の果てにあってもなかなか習得できるものではないので、歩む道はますます悪路にて困難を極めるかも知れません。しかしだからといってまた宜しくと言うのもお互いの為には決してなりません。最初に鏃を頂いた方は、ふざけるんじゃないよ、お前の親切ほど迷惑なものはない!と怒り狂うかも知れません。


しかし一方ではまた何も苦しまずにすむ方法もありますが、ホーホケキョとのほほんと暮らすのもまた人の自由でありますから、それを否定する権利も自由も私にはありません。但しそんな自由な自由にお付き合いをする時間も勇気も気力もありませんが、せめて言葉の威力がどんなものかを楽園の中でご理解頂ければ幸いなのであります。


とこうなるとその「楽園」なる仮定の名称にも問題があるようにも思いますが、恐らくはそこはきっと間違いなく紛れも無く文句のつけようのない楽園なのでしょう。行ってみたいとは思いませんが、きっと素晴らしい楽園なのでしょう。でも私の住んで世界はいつも荒野であり砂漠であり荒れた海ですから、どこまで行ってもそんな暢気な楽園などありません。そもそもそんなモノは求めていませんし、この世には存在しないことを固く信じています。そんなもんあってはならないと世間がいつも教えてくれています。


だからこそ今書いておかなくてはならないことがあるのです。楽園から突き出てしまった鏃は相手の胸の奥まで突き刺さり、突き抜けてアナタの楽園に戻ってアナタの胸に再び突き刺さり、鏃の役目を果たし終えるのです。その鏃の傷みが少しでも伝われば鏃も生まれて来た甲斐があったというものでしょう。でもまたその鏃もご主人様の胸を打ち抜いたことに大きな悲しみを覚えることでしょう。


それともうひとつ書いておかなくてはならないことがあります。それは、言葉には何一つ相手に伝える能力はないということです。そしてひとつの言葉には幾千幾万の意味があり、その使い方によっては「美しい」が「汚い」の意味にもなり、「馬鹿たれ!」が親愛の表現にも成りうることくらいは誰でも御存知でしょうから、これくらいにしておきましょうか。


全ては終わりましたので、存分に書かせて頂きます。