2012年2月8日水曜日

小さな歴史が終るとき

趣味の世界の話ではありますが、どうしてなんだろうか、折角大事に育てているのに、始まったばかりの歴史が幕をおろしてしまうのです。最初に幕をおろした時の言葉は「自粛は間違っている」でした。震災で多くの人が死んだり大きな被害を被った時に、遊びの活動を自粛するのが間違っているなんてどこをどう探したらそんな理屈が出て来るのか、理解に苦しむ一幕でしたが、ワタシのその時のショックはかなり大きかった。その表現にショックを受けたのではなく、どういう生き方をしてきたらそんなことが言えるようになるのかと、想像すらできなかったことにショックを受けたのでした。

しかし後で考えてみると、人前で自分が「小さな犯罪を犯していたこと」をある種自慢げに話していたこともあったことから、自分を客観視する成長過程がなかったんだと推察できるのですが、こういう人の本質を早く見抜く力がワタシになかったことも事実のようです。

そしてそんな世界から足を洗いまた別の世界へ踏み込んでみたものの殆どコミュニケーションが成立しないのですね!その理由は未だ理解できずですが、会話のネタが見つからないので、少し質問形式にしてみると、そんなに大先生にならなくても良いのに、富士山の頂上から飛び降りて来るような勢いで説明と言うか講義が始まるのですね!その講義の内容が面白いのなら少しは我慢もできるが、何の説明にもなっていないことに気づいていないその人がだんだん哀れにも思えてくるのでした。そう言えば、シーカヤックの第一人者の方も何かを一生懸命説明しようとはしているのだが、実は何の説明にもなっていないことをお気づきになっていないようで、こういう人は世の中には一杯いるのかも知れませんね!

まぁワタシなども何かを説明することがありますが、説明した後で良く言いますが、「あっ、すいません、今の説明になっていませんでした。」ってね。

それからしばらくして道で偶然に知り合いに出会い短い会話を(しようと)しました。その方はいつしか勝手にワタシの先生になっていました。こういう場合は世間話でいいのに、そして誰もあなたに教えを請うてはいないのに、こうすればよいああすればよい・・・などと講義が始まるのでした。心の中でこういう方は何かの先生には向かないなぁ・・・と、悲しくも別れを告げたのでした。そしてここでもまた小さな歴史が始まらず終ってしまったのでした。

「君子危うきに近寄らず」って、高校の頃には何のことやらさっぱり実感できなかったですが、どうも最近は「危うき」を実感しすぎで悲しすぎです。まぁ自分のことを君子などと思ったこともなろうとも思ってはいませんが、危険な君子には今後は特に気をつけたいものです。

でもね、思うのですが1分1秒を争うような忙しい生活をしている人は、いつも時間を大切にしていると思うのですが、時間よりももっともっと大切なものがあることを忘れてしまっては、時間を大切にする意味もないように思うのですね!我々は今生きていますがいつしかあの世に行ってしまいます。しかしそのときこそ時間は失われず永遠となるはずですが、今生きている時に何かの心を忘れてしまっては、その世界でもその人の時間は失われ続けるのではないのだろうか?!

しかし意外にも今日は落込むどころか妙に気分がすっきりしているのは何故だろうか?多分それは予想通りの結果だったからだと思うのです。それは日頃から何かの局面である種の面白くない部分と言えば良いのか、反応したくない部分と言えば良いのか、何か心の硬い部分を感じていたから、もしそれが変な対抗意識だなどとは思わないが、それでいて低姿勢な上から目線も何となく理解できたからだろうと思うのです。

あ~ぁここまで書いて気がついたことは、実につまらないことを時間をかけて書いたもんだと言う事。実にくだらん話だが、これから先こうしたクダラン時間を過ごさない方法をもっと研究しないといけないな・・・と思うのであります。それにしても意味不明だなぁ・・・・。